お久しぶりな10/11
お久しぶりです。
書いてみます。
最近は酒を飲みまくってました。いつも通りとも言えます。
封筒に入れてカバンに入れたはずの3万円の居場所が分からなくなってしまい、とっても悲しいです。無。
私、生きる上での目標がもう無いのです。全てやることやったような気がして、満たされたような気持ちってこれからは得られないのではないかという気持ちです。
逆にこれ以上生きることは失っていくことばかりなのではないかと。早速3万円見失ってます。
諦めと言えば諦めですが、そんなに絶望とかではないです。何なら「絶望」なんて言葉を頻繁に使う人間ってのは、希望への淡い期待を抱いている人が多い気がします。
私の場合はそんな大層なものではないです。もう続いてくれなくていいんです。苦痛なく死ねるのなら、酒を沢山飲んで、恐怖が少し薄れているうちに死んでやりたいところです。
死ぬという選択肢は往々にしてタブーとされているような気がします。
世の中、「自由に生きろ」と自由を宣言する人は多くいても、「生きるも死ぬも自由にやっていいよ」とはなかなか言ってくれず、言ってくれないだけでなく、簡単には死ににくい世の中な気がします。精神的にも物理的にも。
「死んだら何もかも終わりだ」という人もいますが、何もかも終わりだとしたら何なのでしょう。何なら何もかも終わりにしたいところです。
私はもうあまり自分以外に多くの期待を抱けない人間になってしまっています。まだ22歳だというのに。期待をしてもダメな気がしています。自分が渡したものは、返っては来ないと思うのです。世の中は得をする人と損をする人がいて、得をしていると感じることの出来る人は限られていて、私は損をしがちな人間で、かつその人間としてもがくこと、そのような人間として得をしている人間を直視することが苦痛で仕方が無いのです。
そう考えると、「死ぬ」というのはネガティブではない気がするんです。逆に特にしたいことも無く、退屈に生き続けて、今まで得た喜びとか友達とか恋人とか記憶とかを失っていくことはネガティブだと思ってしまうようなそんな気がします。
こんなに偉そうなこと言っといてアレですが、やっぱり死ににくい世の中(生きにくい世の中ってのはよく言われますけれど)なので、私も自ら死を選ぶことはまだできていません。
私は中高以来の仲のいい友達が死ぬということを今年の6月に体験しました。その知らせを聞いた当日は「信じられない」という気持ちになって、同じように「信じられない」という気持ちになってた友達と、泣いたりしんみりしたりもせずに昼間っから酒を飲みまくりました。
その後電車に乗り、気づいたら知らない駅にいました。タクシーで知人宅に行くことにしましたが、そのタクシーの中で私は初めて友人の死に涙しました。
その友人とは、何なら仲は良かったものの腐れ縁みたいなもので気はあまり合わず、同じ大学に入ったにもかかわらずお互いあまり交流せずに過ごしていました。そのためそれほど思い入れもなく、1番記憶にあるのは中高の頃の友人で、それは間違えなく私の中で生きていました。
けれど、タクシーの中では涙が止まりませんでした。タクシーの運転手に泣き言を言い続け、泣き続けました。
理由は分かりません。それだけ、長く関わった人の死とは不思議な悲しみをくれるのだと思いました。
しかしそれから3ヶ月以上がたった今、友人を失った悲しみで涙が出ることはありません。
友人には申し訳ないのですが、そういうものなのかもしれません。もしかしたら、大学に入ってから親密にしていた人達にとっては違うのかもしれません。
でもこのように、人の突然の死は時間が経てば悲しみという形では残らないのかもしれないと思ってしまいました。
だから自分も死んだら周りが悲しむなんてそれほど思っていません。悲しむとしても、1ヶ月もしないうちに私を失った悲しみなんて忘れて自分たちの生活をすることでしょう。
私はきっと思い出になるのです。
違う学校に行くとか、遠くに引っ越すとか、そういうのと同じだと思ってもらえると思います。
こんな感じで、死ぬことによる周りへの迷惑ってものはそれほどないと思っております。
なのでいつか決心がついたら、さようならだとは思ってます。
誰もいないところだとこういうことが言えます。周りの人に言うと、怒られるかもしれないなんても思います。
私は生きていることがもう虚しくてしょうがないのですが、それでもサヨナラする決心がつくまでは生きることにはなるので、なるべく退屈しないようにやろうとは思っています。退屈には耐えられません。
いつかその時まで、周りの人達にはよろしくしたいです。
退屈は嫌だし早く3万円見つからないかな、と最後に一言で、今日はおしまいです。
おしまい