振り返ってみて見つけた矛盾!?

先程振り返ってみて、過去の投稿で矛盾っぽく見えるところを見つけちゃったので本日二回目の投稿です。


投稿というか、訂正に近いかもしれません。


ある記事では、「周りと差異化しようと頑張る必要はない!」と啖呵を切りながら、あとの記事では「自分は芸術とか音楽とかで周りと違くなりたい!」なんて言ってましたね。


これに関しては、2つくらい弁明します。普段の生活ではあんまり言い訳とかしたくない人間なのですが、ここは裏の顔なので、しちゃいます。


私は自分に自信が無いのです。しかし自分を特別視しています。


そして「周りと差異化しなくたっていい!」っていうのは、同じように自信がない人たちへ向けてのアレでもあるのですが、自分はそのようなことでクヨクヨしたり、気にしたりという場面を少しも作りたくないというのがあって、他の人は別に怯える必要は無い、そのままでいい、と言いつつ、自分はちゃっかり周りと違くありたいなんて思ってしまうのです。


勝手な意見と言えば勝手な意見ですね。でもいいんです、私の人生なので、勝手に色々やって勝手に色々なことを言います。


逆に勝手に色々なことをやらなかったり、言わなかったり然りです。


その辺に変な執着や縛りは、なるべく受けたくないと、思っております。


私は兎にも角にもあまり何かを失わず、且つ周りに一時的だけでも必要とされたりして、あとはやっぱりなるべく退屈したくないです。


それくらいです。大きな望みはないつもりです(もしかしたらこの望みが既に大きいのかも知れませんが)。


以上です!言い訳、屁理屈でした。


おしまい

お久しぶりな10/11

お久しぶりです。


書いてみます。


最近は酒を飲みまくってました。いつも通りとも言えます。


封筒に入れてカバンに入れたはずの3万円の居場所が分からなくなってしまい、とっても悲しいです。無。


私、生きる上での目標がもう無いのです。全てやることやったような気がして、満たされたような気持ちってこれからは得られないのではないかという気持ちです。


逆にこれ以上生きることは失っていくことばかりなのではないかと。早速3万円見失ってます。


諦めと言えば諦めですが、そんなに絶望とかではないです。何なら「絶望」なんて言葉を頻繁に使う人間ってのは、希望への淡い期待を抱いている人が多い気がします。


私の場合はそんな大層なものではないです。もう続いてくれなくていいんです。苦痛なく死ねるのなら、酒を沢山飲んで、恐怖が少し薄れているうちに死んでやりたいところです。


死ぬという選択肢は往々にしてタブーとされているような気がします。


世の中、「自由に生きろ」と自由を宣言する人は多くいても、「生きるも死ぬも自由にやっていいよ」とはなかなか言ってくれず、言ってくれないだけでなく、簡単には死ににくい世の中な気がします。精神的にも物理的にも。


「死んだら何もかも終わりだ」という人もいますが、何もかも終わりだとしたら何なのでしょう。何なら何もかも終わりにしたいところです。


私はもうあまり自分以外に多くの期待を抱けない人間になってしまっています。まだ22歳だというのに。期待をしてもダメな気がしています。自分が渡したものは、返っては来ないと思うのです。世の中は得をする人と損をする人がいて、得をしていると感じることの出来る人は限られていて、私は損をしがちな人間で、かつその人間としてもがくこと、そのような人間として得をしている人間を直視することが苦痛で仕方が無いのです。


そう考えると、「死ぬ」というのはネガティブではない気がするんです。逆に特にしたいことも無く、退屈に生き続けて、今まで得た喜びとか友達とか恋人とか記憶とかを失っていくことはネガティブだと思ってしまうようなそんな気がします。


こんなに偉そうなこと言っといてアレですが、やっぱり死ににくい世の中(生きにくい世の中ってのはよく言われますけれど)なので、私も自ら死を選ぶことはまだできていません。


私は中高以来の仲のいい友達が死ぬということを今年の6月に体験しました。その知らせを聞いた当日は「信じられない」という気持ちになって、同じように「信じられない」という気持ちになってた友達と、泣いたりしんみりしたりもせずに昼間っから酒を飲みまくりました。


その後電車に乗り、気づいたら知らない駅にいました。タクシーで知人宅に行くことにしましたが、そのタクシーの中で私は初めて友人の死に涙しました。


その友人とは、何なら仲は良かったものの腐れ縁みたいなもので気はあまり合わず、同じ大学に入ったにもかかわらずお互いあまり交流せずに過ごしていました。そのためそれほど思い入れもなく、1番記憶にあるのは中高の頃の友人で、それは間違えなく私の中で生きていました。


けれど、タクシーの中では涙が止まりませんでした。タクシーの運転手に泣き言を言い続け、泣き続けました。


理由は分かりません。それだけ、長く関わった人の死とは不思議な悲しみをくれるのだと思いました。


しかしそれから3ヶ月以上がたった今、友人を失った悲しみで涙が出ることはありません。


友人には申し訳ないのですが、そういうものなのかもしれません。もしかしたら、大学に入ってから親密にしていた人達にとっては違うのかもしれません。


でもこのように、人の突然の死は時間が経てば悲しみという形では残らないのかもしれないと思ってしまいました。


だから自分も死んだら周りが悲しむなんてそれほど思っていません。悲しむとしても、1ヶ月もしないうちに私を失った悲しみなんて忘れて自分たちの生活をすることでしょう。


私はきっと思い出になるのです。


違う学校に行くとか、遠くに引っ越すとか、そういうのと同じだと思ってもらえると思います。


こんな感じで、死ぬことによる周りへの迷惑ってものはそれほどないと思っております。


なのでいつか決心がついたら、さようならだとは思ってます。


誰もいないところだとこういうことが言えます。周りの人に言うと、怒られるかもしれないなんても思います。


私は生きていることがもう虚しくてしょうがないのですが、それでもサヨナラする決心がつくまでは生きることにはなるので、なるべく退屈しないようにやろうとは思っています。退屈には耐えられません。


いつかその時まで、周りの人達にはよろしくしたいです。


退屈は嫌だし早く3万円見つからないかな、と最後に一言で、今日はおしまいです。


おしまい

昨日の追記

珍しく午前中に書いてみます。


昨日帰りの電車に乗りながら書いた記事、タイトルに「強さ」とか入れてたのにほとんど執着の話ばっかりになってしまったと、帰宅後に思ったのでまず昨日の追記を軽くしてみます。


昨日の執着の話から、覚悟も無しに持っている執着は弱点になったり視野をせばめたりという話、そして執着するものが何も無いのは寂しく虚ろな人生になる可能性があるという話をしました。


そこに「強さ」の話を少し絡めてみたいと思います。


漫画やゲームの世界でもよく語られる「強さ」、あればあるほどいいとされる「強さ」これは現実ではどのような感じなのでしょうか。これに関する私の所感です。


まず私は強さには色々な種類があると思ってます。大別すると肉体的な強さと精神的な強さというようになると思ってます。今回は執着との絡みなので精神的な強さ中心で話してみます。


極端な話、ものすごく執着心が強い人のものすごく執着心に乏しい人、どちらが精神的に強いでしょうか?


言葉を濁すようであまり好きではないのですが、これはどちらとも言えないと思います。


精神的な強さには種類があるというのが持論です。例えば先程の例に関して、前者はその執着するモノやコト、人が自らを支えているという強さがあると思います。しかしその支えを脅かす他者やモノ、状況などは多く存在することが考えられ、それらに怯えたり、それらと戦う中で脆くなってしまいます。


一方先程の例の後者は、その他の何かに執着する人を全て一笑に付すことができるでしょう。「何をそんなに必死にやってるんだ」と思うことができます。他の人が焦ったり、悩んだりする中で何にも知らない顔ができると思います。これは強いということが出来ると思います。先程の場合の強さとはまた違う強さでしょう。しかしこのような人の場合自分以外の支えがありません。何なら自分ですら支えになってないかもしれません。そのようなフラフラな存在は、傍から見れば強いと言うにはあまりにみすぼらしく見えると思います。


このように、執着の強さが弱さと強さを様々な位相で生み出してくれるのだと思います。このようなことを頭に入れて日々行動したり、考えたりすることで、そうしないよりクヨクヨせずに生きれるような気がします。


これが機能しそびれた執着と強さのお話でした。徹夜明けなので文章雑かもしれません。


一旦この追記はここまでで。


おしまい

執着と強さのお話

こんばんは。


書きます。


今日はギターを弾いたりピザパーティーしたりしてました。お酒も飲みました。楽しぃ〜。


今日は、表題通り、執着と強さの話をしてみようと思います。


皆さん(誰も見てないだろうけれど)何か執着、こだわりはあるでしょうか。


「これはこうじゃないといけない」「どうしてもここはこうしたい」、とそんな感じです。


この執着ってやつはなかなかに厄介で、他の人との諍いの原因になったり、弱点になったりするのだと、私の所感ではそう思います。


自分の執着に理解を示せてもらえないと、怒りや失望の気持ちを持ってしまうことにもなりかねません。


また、その執着しているところが他人に知れてしまったら、そこにつけ込まれてしまうかもしれません。


このように執着を持つことでのリスクは計り知れないと思います。


私はしかしそこで、この執着を持つのをやめよう、全部捨てよう、と言いたいわけではないです。私は執着というのは人生を豊かにすると考えています。


考えてみましょう。


執着が全くない、それは全てが「どうでもいい」「どっちでもいい」ということです。


そうすると、生きてても何でもよくって、なんなら死んでてもよくって、ただフラフラしているだけになってしまいます。きっと虚しいとどこかで感じてしまうと思います。


しかし、執着することのリスクを考えずに多くの執着を持つことは、やっぱり本人にとって損なことだと思います。


なので、執着することのリスクを考えた上でも、執着したい!と思えることに執着し、そこに対して覚悟、決意をして、他のことに関しては執着を強く持たずに、柔軟に色々受け入れるのが1番楽で且つ賢いやり方かなと思います。


他の人の違ったことを受け入れるということも、「確固たる自分」という信念を持ってる人にとっては最初は大変かもしれません。でも慣れると、案外楽しいものです。


というわけで、今日は執着はほどほどに、ということでした。執着って言ってもそれをこだわりと呼んだり、大切にしていること、もの、人と呼んだりもするやつのことです。


執着っていうとネガティブな要素を含む言葉みたいですが、私はそんなことはないと思います。ニュートラルなんじゃないでしょうか。


何か自己啓発みたいな文章になってしまいました。


こういうことも恥ずかしくって顔のみ知ってる知人には言えませんね。ブログだから言ってみました。


それでは今日はこの辺で。


おしまい

9/28 芸術と音楽と裏の顔のお話

三日坊主としては三日目までは毎日投稿するというのが筋なものでしょう。本日、平成最後の9/28の投稿です。


本日は美術大学の展示を見てまいりました。私は美術には全く造詣が無いもので、見たところで「おおすごい」とか、「なんだろうこれ」とか、「でかい」とか、そんなことしか思えません。


どういった芸術が評価され、どこを評価するべきか、そんなことは一切わかりません。


美術に関して、実際そのような評価基準があるのか、ないのか、そんなことすらもわかりません。


それでも、そこにくよくよしないで素直に何かを思えて、それを恥ずかしいとか思ったり、或いは何か気取ったことを考えてみようとかしないのは、自分の性分のなかでも割と気に入っているところでございます。


他の人はどのように考えるのか、気になりますね。私は本当は会話が大好きなのです。だから、こうしてブログなんかやってるわけです。誰か見てくれないかなぁ、と思ってます。


きっと見てもらう方法はいくらでもあると思うのですが、まだ調べてません。気が向いた時にでもやったろうと思います。


話を元に戻して、芸術です。


私は絵が上手だったらなぁと、時々考えます。絵によって自分、他とは違う自分、替えのきかない自分というところを意識できる面はあると思うのです。


そして私は、「他の人と同じだったら、自分なんていくらでも替えがにいてしまう」と思います。それを良いとか悪いとかはさておきでございます。


それでも、「他と違う自分」が他から認めてもらうことの嬉しさというのは、経験で知っています。


それなので、絵を描くことが好きで、それで且つ絵を描くのが上手で、周りから認めてもらうというのはとても望むところであります。羨ましいです。


私は軽音サークルに所属しているのですが、そこでのライブというのはそれに近い感じがあると思っています。


自分のギター、自分の弾き方、自分の立ち姿、自分の声、色々な自分が混ぜ合わさって「他とは違う自分」を発することができる、そのような感じがします。


そのせいか、ライブをするのはとても好きです。来年から社会人の予定ですが、いつまでもやりたいと思えることです。


何だか話が長くなりそうなので、この辺の話は別の日にでも取っておこうかなと思ったりしてます。


そして、タイトルでまだ回収していない話、裏の顔のお話。


私は、裏の顔って言ったらここに一部掲載しているわけですが、本日、私の友人のTwitterの裏アカウントの話を、その友人の恋人から聞きました。


友人は男の子なのですが、AV女優に返信を送ったり、下ネタを言っていることが多いのだそうです。(実際に私も確認しましたが。)


知り合いの誰の目に触れてほしくない、けれど言いたい、そして誰かには聞いてほしいということがあるのは、私もこのブログを始めてみた身としては重々承知です。なので引いたりはしません。


私は、偉い、賢いと思いました。


そのような、知り合いの目には触れない(はず)のはけ口を作って、自らの表の顔を保っているという友人のやり方は非常に賢く、自分を上手くコントロールできていて偉いと思いました。


強いて言うなら、それが恋人、さらに恋人から私に広まってしまったのは脇が甘かったというところでしょうか。


悪くないと思いますよ、裏アカウント。裏アカウントに関して思うことについては、また別の機会にでもしようと思います。


本日はこの辺で。三日目達成!


おしまい

9/27 私とART-SCHOOLとその他色々な話

こんにちは。


本日は酔っ払いながら記事を書きます。2日目にして。


今日は大学のゼミがありして、発表しました。卒論の方針発表でございます。


夏休みのあいだの進捗発表って言われても...


まあそりゃ何もやっとりません🦒


何とか二限三限を切り、レジュメを作り、ゼミに出ました。


思いのほか教授たちの反応は悪くなく、良かったなぁと。


ゼミで、下級生がしていた話、「他の誰でもない自己を形成するための差異化」については酔ってるし、話してみたいと思います。こういう話こそ、知人友人には出来ません。恥ずかしい。


はい、差異ですね。自分は他とは違う。こういう映画を見て、こういう音楽を聴いて、こういう本を読んで、こういうことを考えて、こういう服を着る…


自分で色々選ぶという話…


立派な話じゃないですか。


ぶっちゃければ、ほとんどの人間は、ほとんどの人間から要らないって思われてる世の中だと私は思っております。人命みたいな適当な道徳観にぶら下がりながら、その裏腹で他の誰のことだって結局どうだっていいと、みんな思ってると思います。というか、そうじゃなきゃ、やっていけないんじゃないかなって。


結局皆、自分のことが可愛くてしょうがないってのは言い尽くされたことだと思いやすが、そう思いやす。その結論が、「生」なんじゃないかなって。別に思想的なこととかじゃなくって。体が生きたがってるってこと、あると思うんです。嫌なことあって、「死にて〜〜〜」って思っても、大体皆死なないじゃないですか。そうゆうことですわ。自分のことを誇れている人、それはすごいと思います。自分もそのようになりたいとは思います。


話を差異化に戻して、どうにかして自分を差異化しないと、っていう人がいるという話、それに関してはビビりすぎではと、個人的には思うんです。


私は、友達が他のどんな人間と似た思想を持っていて、趣味嗜好を持っていたって、友達はそいつ限りって思います。


ヘタな理由とかは要らないんです。そいつがそいつだから、それで別に悪くないなって、そう思うんです。


差異化で苦しむ人はいるかもしれないです。自分は他とは違うんだって。でも周りからすれば、その人が自分の近くにいてくれる、その人が自分と何らかの関係を持ってくれる、それだけで特別じゃないんじゃないかなって、そう思うんです。


他と似てても、僕に、私にとっては、色んな体験とかなんだりを共有した、そいつなんです。


だから、何をそんなに怯えてるんだよっていう感じなんです。


お前がアイツに似ていても、俺はアイツじゃなくてお前が好きだって、胸を張って言える関係が何だかんだで1番落ち着くんじゃねえかなって、そう思うんです。実際私はそういう気持ちで生きています。


はい、以上長くなりましたが私が思っていた話、こんな話、自分の知人や友人には知られたくないなぁ。恥ずかしい…


でもそれくらい、周りに居る人、居てくれる人には救われてるんです。恥ずかしくて言わないけれど。


そして表題のART-SCHOOL。そろそろ触れようかと。


今日はずっとART-SCHOOLをきいておりました。


最近Appleミュージック入って。


そんで、14soulsとか、1番最近のIn Colorsとか入れてきいてたんですよ。


めっちゃいいなって。


ちょっと前、ART-SCHOOLのボーカルギターもやりました。やりごたえ満載で、バンドメンバーもみんな好きだったんですよ。そんな感じなんです。


いや、2つともいいアルバムだなって。まだ全部聴いてないけれど。


とりあえず好きなのは、14souls、HEVEN'S SIGN、CATHOLIC BOY、KILLING ME SOFTLY、Dreaming Of You、OK & GO、スカートの色は青、Shining 夕暮れとかかな…


ちゃんと聴けばもっと増えるかも。


酔いながら書きました。相も変わらず、誰も見ねえんだろうな、とは思うんだけれど、吐き出す場所が欲しかった私は大満足!おかげ電車乗ってても居眠りしないしね!


それじゃ、9/27でした!

雨のひ 9/26 のお話

せっかく始めたので、書きます。


今はマクドナルドでコーヒー(M)を飲んだり、マクドナルドのポテト(L)を久々に食べたりしています。


マクドのコーヒー、安くて美味しくて好きです。高校からずっとブラックで飲んでいます。


ブラックを飲むようになったきっかけとして、毎日のようにコーヒーに砂糖を入れて飲んでると、毎日砂糖を飲んでる感じがして気持ち悪いと思ったってのがあります。


今ではブラックを飲めると「へーブラック飲めるのか〜」と言われたりするのでなんだか面白いです。


ポテトってぇのは、やっぱり体に悪そうですね。寿命縮まりそうです。


まあ、早く死んでも別にいいのでそれは構いません。わたしの死についての考えも、せっかくブログという恥ずかしくない場所を得たので、今度暇な時にでも書いてみます。


はい、本日平成最後の9月26日はあいにくの雨でございました。


私は雨が嫌いです。


あの靴下がグショって…グショって…


ちっさな頃から嫌いです。


嫌いなものを減らして、好きなものを増やすのが、世の中を生きやすくするための近道だと思っているので、雨のいいところを探しておりますが…


ないですね🐕


例えば相合傘なんてのも、あんましドキッとくるものではありません。相手がすごくくっついてくれたりしない限りは。


全然話は飛びますが、雨具ってのはどうも大変です。


傘、こいつは曲者で、なかなか上手く扱えません、未だに。もう立派な成人なのに。


ある程度より雨が強いと確実に濡れます。特に脚。嫌です。折り畳み傘はもっと扱いが難しいです。あぁ。


カッパ、これはもはやそんなに着てる人いませんね。荷物があるともうほぼ守れません。


長靴、着脱大変。


こんな具合。雨、どこかにいいところはあるだろうか。あったらだいぶ楽だと思います。


そういえば昔サカナクションのAme(A)という曲をコピーしました。ボーカルギターをやりましたが、サビ、、、ギターがボーカルパートとは思えない大変さでした。5カポで一定店舗でプリング、プリング、プリング、、、


本来打ち込みでやるのかなって感じもしました。どうなんでしょ。


しかもライブ本番はいいところでストラップが外れてしまうという感じでした。


でもまぁ、楽しかってございます。


そして、サカナクションのコピバンをやる予定はまたあるので、楽しみです。Ame(A)はやらない予定ですけれど。


サカナクションのボーカルパートのギターの音作り、どうすっかなという気持ちも既にあります。


まあ何とかなるでしょう!誰か詳しい人とかいないかな…


今日はこんな感じで。


誰かが見ることあるのか…?こんな独り言…でも誰かが見てくれたら嬉しい…


おしまい